essey
seamoon-net.com
 
2つの快楽
 
  “快楽”ってなんだかとっても怪しい響きです。人を堕落させるような、いわゆる煩悩をさしているような感じですね。人は快楽を求める生き物です。人が生き物の一種である限り、それは当たり前のことだと思います。おいしいものを食べたらおいしいと感じる快楽、買い物に行って欲しいもの買う快楽、セックスで喜びを感じる快楽などなど、快楽はさまざまです。

  快楽には大きく分けて、2つあると思います。一つは“消費される快楽”もう一つは“蓄積される快楽”です。消費される快楽とは、ただ食欲や物欲などが満たされるとき、ギャンブルや絶叫マシーンなどでスリルを感じるとき、肉体的な喜びのためだけにセックスをしたときなどに感じる快楽です。それらの快楽は、そのときに喜びを感じても、すぐに消費されてしまい残りません。だからまた繰り返し感じたくなり、そのうちにその喜びにとりつかれて中毒化していきます。一方、蓄積される快楽とは、仲間や家族で楽しく食事をしたとき。きれいな景色を見たり、素敵な絵を鑑賞したり、好きな音を聞いたりしたとき。そして、心から大切に思う人とのセックスで喜びを感じたときなどに感じる快楽です。これらは雪のように降り積もり蓄積していきます。

 人にとって“消費される快楽”の方がインパクトがあり、そっちばかりに傾きがちです。たしかに、それは肉体を持った人間にとってある程度必要なことなんだと思います。でも、それだけを求めると、それにとりつかれてしまう危険性があることを人は知っているべきだと思うんです。また、人が“何かを欲する”ということをまったく否定することにも問題があると思います。例えば、なにかとタブー視されるセックスにしても、いけないことと感じるのは肉体的な喜びだけを求めることであって、セックスそのものを否定することで自分を縛りつけ、大切な人と愛を分かち合うことができなくなってしまうこともあると思います。見た目が同じ姿をしている喜びも、その人がそれに触れる気持ちや方法で、質が変わってゆくんではないでしょうか。いったい何に喜びを感じているのか、それによってその快楽が消費されていくのか蓄積されるのかが決まるんだと思います。

 私はそんな“快楽”を通して、肉体を持っている人間という生き物に生まれたことをうれしくも悲しくも感じることがあります。皆さんはどんな風に感じますか?
1999/09/23
 
>>> essey top
TOP >>> seamoon-net.com
 
Copyright © 1998 Kiyoko Oshima. All Rights Reserved