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その物差しで計るなよ
 
 集団で生活するとき、そこにはひとつの社会が生まれ、人々の間にはなんとなく"善"と"悪"の基準が存在します。この善悪の判断基準はきっちりと決まったものではなく、その時代や環境によってどんどん変わってゆきます。戦時中は、今では考えられないことが"善"となっていたことは、皆さんもよくご存知かと思います。一般的な意味での"自由"でいられることが当たり前な現在の日本では、考えられないことですね。でも、もっと小さな世界で見てみると、今でもそんなことがありはしないでしょうか。

 社会は個人が集まり生まれます。家庭、学校、会社、国 ...それぞれの社会の中にはいろいろな人がいて、それぞれの人が生まれ育った環境などによって培われてきた自分の善悪の判断基準をもっています。判断基準が異なる人たちが集まった社会だからこそ、規則や法律といったその社会の基準のようなものを形にしたものがあるわけですが、もっと身近な次元でこの善悪の判断基準はあやふやな状態で存在しています。だいたいの場合、同じような判断基準をもっている人が多ければ、その社会の中ではそれが正しいとされているようですが、果たして多数意見は正しいという理論は成り立つのでしょうか?少数意見を"間違ったもの"とすることは、おかしいと私は思います。多数決は、集団がある方向に進むために意見をまとめる方法で、民主主義の世の中ではよく機能していますが、善悪を決めるシステムではないですよね。

 自分の基準が一番正しいと思い込んでいる人は多いようです。自分以外の人を自分が持っている物差しではかろうとします。人は、それぞれ自分専用の物差しを持ってるのに。そして、自分の物差しではかれないことを知ると「それは間違っている」と言います。集団の中で同じような物差しを持っている人が多いと「我々が一番正しい」という雰囲気ができてきて、それ以外のものを排除しようとしたり、差別や偏見の目で見るなんて言う悲しい考え方を生んでしまいます。ほんとに淋しいことです。

 また、この集団がつくり出すあやふやな基準で善悪の判断をしないのなら、自分の物指しにはどんな目盛りがついているのかを客観的な目でしっかりチェックすることは、とても大切なことです。例えば人に危害を加えるような目盛りがついていて、それが正しいと思い込んでいる場合、それは最も危険な物差しになりかねないからです。人の思い込みというのは、だいたいの場合あまり良い結果を生まないようですね。

 いろいろな人がいるから、世の中面白いことだって結構あります。だからこそ、ちがう物差しを持つもの同士の意見の差をうめるために、お互いが歩み寄ったり理解しようとする。そんな考え方を多くの人が持てればいいのに、と思うのでした。
2000/01/15
 
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