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咲って
 
 “昔、花が「さく」、と「わらう」は同じ「咲」を使ったようです。「顔がほころぶ」と言うように、人の心を和ませる様は、きっと花と同じものを感じたのでしょう。” 先日、友人からこんなメッセージが届きました。 メディアなどから伝わる世界や日本、地域の悲しいニュース。そして、もっと身近で起こる悲しいこと。私たちのまわりでは、毎日のように悲しい出来事が起きています。そんな出来事に出会うとき、私は気持ちが沈み、言い様のない哀しみを憶えます。ときには、その悲しみがあまりに大きすぎて「怒り」や「不安」、「無力感」といったものに姿を変えたりして、感情のコントロールに苦労することもありますが、それはそれで受け止めて、そして、自分も含めその哀しみの中にいる人々について深く思い、祈ります。

 私はいつも咲っていたいと思うんです。どんなに悲しいことに出会っても、私の真ん中はいつも咲っていたい。悲しいことに出会ったら、もちろん悲しい気持ちになります。だって、悲しい出来事はどうひっくり返したって悲しい出来事だから。それはしっかり受け止めなくちゃいけないことです。だけど、私の真ん中がいつも咲っていれば、その振動は自分のまわりの人にも伝わるし、なにより自分の人生という旅路の足下を明るく照らしくれる、そう感じます。
 だから思うんです。「いつも私は咲っていたい」と。
2001/11/13
 
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